昭和の乗用車に見られた「つり革車」の実態は、実は当初から厳密な機能的根拠を持っていました。1970年代から1980年代にかけて、リアバンパーの下部に黒いベルト状のゴムパーツが装着されている車両が数多く存在していました。これは「アースベルト」と呼ばれるもので、車体に帯電している静電気を地面に放電させるための装置です。走行中に摩擦電気が蓄積された車体から電気を逃がすという、安全と快適性を両立させるための工夫でした。しかし、このアースベルトが存在していたリアバンパー下部という位置に、次第につり革が装着されるようになっていったのです。自動車業界の見方では、アースベルトの延長線上で、いつの間にかドレスアップ用のつり革カスタムが一般化したのではないかと考えられています。この歴史的背景を知ることで、昭和期の車カスタム文化がいかに多層的だったかが理解できます。
つり革車の発祥に関する有力な説として、1970年代の暴走族による「箱乗り」という行為が関係しているという見方があります。箱乗りとは、窓枠から上半身を乗り出して走行する暴走行為を指し、車内から身を乗り出してチームの旗を振ったり、大声を発して周囲を威嚇したりするための行為でした。このような危険な乗り方をする際、乗客が落下するのを防ぐために、車内につり革を装着する必要がありました。つり革を掴むことで、高速走行やコーナリング時に振り落とされるリスクを低減させたのです。その後、この機能的な車内用つり革が、若者文化の遊び心と相まって、リアバンパーに装着される見た目重視のドレスアップアイテムへと変化していったと考えられています。当時は1985年以前のシートベルト装着義務がない時代だったため、現在とは法的背景が異なっていたのです。
つり革車カスタムが急速に広がった背景には、1980年代の族車文化において「シャコタン(車高短)がカッコいい」という価値観が存在していたことが大きく影響しています。車高を極限まで低くした改造車では、リアバンパーがギリギリ地面に触れるほどの状態になることがあり、その低さをアピールするためにあえてつり革を地面に引きずるように装着する者たちがいました。「これだけ車高を低くしたぜ」という自己主張の手段として、つり革は機能から完全に装飾品へと転換していったのです。ハート形の握り手部分や、小さいバケツへの変形など、年を追うごとにドレスアップの工夫も多様化していきました。さらに、本物の電車から盗んできたつり革を装着する行為も横行し、その時代の若者文化における逸脱と創意の象徴となったのです。1980年代後半には、つり革の存在自体が「昭和の思い出」「懐かしい族車」というイメージで一般的に認識されるようになりました。
1980年代後半から1990年代にかけて、つり革車は急速に消滅していきました。最大の理由は、道路交通法の厳格化とシートベルト装着義務の法制化です。1985年以前は身体を乗り出しての箱乗りがある程度黙認される時代でしたが、法令整備により暴走族行為は徹底的に取り締まられるようになったのです。さらに、自動車の保安基準が厳格化され、リアバンパーからぶら下がるパーツは飛来物の危険性や他車への接触事故のリスク要因として規制の対象になりました。警察による摘発強化と保安基準の厳格化という二つの要因が相まって、つり革車カスタムは合法的な範囲では存在しづらくなっていったのです。現在でも一部の旧車愛好家がつり革を装着している光景が見られますが、これらはあくまで保安基準適合の範囲内で装着されているものであり、かつての無法さは失われています。つり革車の消滅は、暴走族文化の衰退と日本社会全体の法治意識の高まりを象徴する出来事となったのです。
興味深いことに、つり革は21世紀の現在、全く異なる目的で再び車に装着されるようになりました。日産デイズなどの軽自動車に装着される「つり革グリップ」は、高齢者や妊婦、身体が不自由な方の乗降を補助するための福祉用具です。腰や膝の痛みで乗り降りに不便を感じている人、あるいは加齢に伴い腕が高く上がらなくなった人が、つり革に体重を掛けることで安全に車内外を移動できるようになります。助手席や後部座席のアシストグリップ部に装着されるこのタイプのつり革は、通販サイトでも容易に入手可能であり、自分で取り付ける人も増えています。高齢社会の進展に伴い、このようなつり革装着車は今後さらに増加することが予想されています。昭和時代の遊び心と無法性に満ちたつり革車が、令和の時代には高齢者の移動支援という社会的ニーズを満たすための装備へと変貌を遂げたのです。これは単なるカスタムの変遷ではなく、日本社会における価値観と法規制の劇的な転換を物語っています。
つり革カスタムの発祥と文化的背景について詳しく解説した記事。昭和族車文化とドレスアップの実態が紹介されています。
つり革の複数の使用目的と進化の過程を網羅した参考資料。アースベルト、箱乗り用、ドレスアップ、福祉用途といった4段階の変遷が詳述されています。