1979年7月11日のトンネル内は、前夜の交通渋滞の影響で混雑していました。事故の始まりは大型トラック同士の接触事故。名古屋ナンバーの大型トラックAが急停車し、その直後に大阪ナンバーの大型トラックB(積荷:鋼材10トン)が激突。この衝突で大破したトラックBに続き、日産・サニーバンが追突し、その直後に後続のセドリック(日産製・乗用車)が前方を走行するサニーバンに追突しました。
セドリックはこの時点で前方の車両に接触しましたが、最大の悲劇はさらに後ろから迫ってきました。後続の大型トラックC(積荷:エーテル)と大型トラックD(積荷:松脂)が次々と衝突してきたのです。トラックDがトラックCに激突し、ところてんのように押し出されたトラックCは、その前方に停止していたセドリックに追突。セドリックは前後のトラックにサンドイッチされる形で大破しました。
この衝撃でセドリックのガソリンタンクに裂け目が生じ、ガソリンが漏れ出しました。そしてセドリック内の電気配線がショートして引火し、爆発・火災となったのです。後続車にも火が延焼し、トンネル内の温度は異常に上昇。当時のトンネルには最新鋭のスプリンクラーや排煙装置が装備されていましたが、火勢の強さに歯が立たず、消火用水を使い尽くしてしまうほどの大火となりました。
セドリックが引火した理由は、電気系統のショートとガソリンの漏れの組み合わせにありました。1979年6月に発売されたばかりの430型セドリックは、日本初のエンジン集中電子制御システム(ECCS)を採用した最新の乗用車でした。このシステムは点火時期やアイドル制御などをコンピュータで集中管理していましたが、多重衝突による激しい衝撃で配線が損傷し、ショートが発生しました。
大型トラックからのガソリンタンクの破損も同時に起こりました。火災が発生した直後、セドリックの乗員は脱出を試みましたが、炎と煙に阻まれて脱出できず、3人全員が焼死しました。トンネル内の温度は急速に上昇し、後続車も熱放射により点火。一説には、ピザ窯と同じ原理で、トンネルが巨大な加熱炉と化したと表現されています。被災車両の一台に積載されていたマグロは、その熱で燃え尽き、骨だけになるほどの高温に達したと記録されています。
驚くべきことに、1979年当時、日本坂トンネルは「A級の防災設備」を備えた高速道路トンネルでした。スプリンクラー装置、排煙システム、非常電話など、当時としては最先端の安全設備が完備されていたのです。しかし、火災が発生してわずか数分で、これらの設備は機能不全に陥りました。
スプリンクラーからの水は火勢を制することができず、排煙装置も多量の煙を処理しきれず、最終的には水が尽きてしまいました。また、トンネル内の温度が異常に上昇したため、コンクリート製の壁が劣化して崩壊するなどの被害も生じました。高温の熱がコンクリートの強度を著しく低下させ、構造自体が脆くなってしまったのです。
この事故により、従来の防災設備だけでは大規模な火災に対応できないという深刻な課題が浮き彫りになりました。事故後、危険物積載車の進入禁止、トンネル入口前への信号機設置など、根本的な安全対策が導入されることになったのです。
この火災事故は単なる交通事故ではなく、日本経済全体に大きな影響を与えました。東名高速は1週間通行止めになり、本格復旧まで2ヶ月近くかかりました。7月18日に上り線片側1車線で仮復旧されましたが、本復旧は9月9日まで延びました。この間、東京と名古屋を結ぶ日本を代表する物流大動脈が機能停止状態だったのです。
物流の大幅な遅延により、南海ホークスのユニフォームと野球道具を積んだトラックが大幅に遅延し、7月13日に予定されていた日本ハムファイターズ戦(後楽園球場)が中止になるという異例の事態も発生しました。プロ野球の試合が道路事故の渋滞による影響で中止になったのは、この件が唯一のケースとして歴史に刻まれています。
さらに経済的な観点からは、この事故による交通への影響が、わずか3年後の1982年に第二東海自動車道(新東名高速道路)計画の決定を加速させるきっかけとなったと指摘されています。当時、東名高速はすでにキャパシティの限界に近い状態で、この事故はその脆弱性を露呈させたのです。
火災に遭ったセドリック以外の車両のドライバーたちは、保険金支払いをめぐって深刻な問題に直面しました。多重衝突に直接巻き込まれなかったものの、火災によって車両が焼失したドライバーに対しての保険金支払いに関しては、その責任主体や支払い基準をめぐってかなりの紛争が生じました。最終的には、これらは普通の車両火災として処理され、保険金が支払われることになりましたが、この過程で保険業界における対応のあり方が大きく問われました。
この事故を教訓として、日本の道路交通安全対策は大きく転換しました。危険物積載車がトンネルに進入することの禁止、トンネル入口手前への信号機設置、より高度な火災検知システムの導入など、根本的な安全対策が次々と実装されました。セドリックが巻き込まれたこの悲劇は、高速道路の安全文化を大きく前進させるきっかけとなったのです。
事故から数十年経った1998年には、日本坂トンネル下り線の全面改築が実施され、新トンネルの運用が開始されました。旧下り線は上り線の新ルートに改築され、より安全で快適な走行環境が実現されました。しかし、セドリックのドライバーたちの命とトラックドライバーたちの犠牲が忘れられることなく、今もなお高速道路の安全対策の中に生き続けているのです。
失敗知識データベース「東名日本坂トンネルの火災」- 防災設備の限界と多重追突メカニズムについて詳細な分析情報を掲載
Wikipedia「日本坂トンネル火災事故」- 事故の経緯、被害状況、関連車両の詳細情報を記載
日産ヘリテージ「セドリック4ドアハードトップターボブロアム」- 430型セドリックの技術仕様と開発背景に関する公式情報
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