日光街道 日光道中 違いと歴史 五街道の魅力

江戸と日光を結ぶ五街道のひとつ「日光街道」は、正式には「日光道中」と呼ばれる歴史的な街道です。現代では東京都の道路名としても使用されていますが、江戸時代の街道とはどのような違いがあるのでしょうか?この記事では、名称の由来から宿場、見どころまでを詳しく解説します。

日光街道 日光道中 違いと正式名称

日光街道と日光道中の基本的な違い
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正式名称は「日光道中」

江戸時代に整備された街道の正式名称は「日光道中」です。幕府の公道として統一された呼び方であり、現在一般的に使用される「日光街道」は俗称に当たります。

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江戸時代と現代の二つの意味

江戸時代の日光道中(日光街道)と、現在の東京都が定めた通称道路名としての「日光街道」は全く異なるもの。混同を避けるため、江戸時代の街道は「旧日光街道」と呼ばれることもあります。

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ルートの大きな違い

江戸時代の日光道中は江戸日本橋から日光まで約144km続く街道です。一方、現代の東京都通称道路名としての日光街道は台東区から埼玉県境まで延長9km、4~6車線の都市幹線道路として存在しています。

日光街道 日光道中 名称の成り立ちと背景

 

日光街道が整備されたのは1617年のこと。徳川家康が日光に改葬され、東照権現として祀られたことを機に、この街道は急速に発展しました。幕府の公道としての正式名称は「日光道中」と定められ、歴代将軍の日光参拝、および参勤交代に用いる大名の通行路として機能してきた歴史があります。

 

江戸時代から明治時代を経て、近世初期までは「奥州道」と呼ばれており、宇都宮から日光までの区間のみを指していました。その後、日光東照宮の完成とともに日光社参が盛んになると、江戸から宇都宮間も含めて「日光街道」と呼ばれるようになったのです。この名称の拡張は、道の重要性の高まりを象徴しています。

 

現在「日光街道」と呼ばれるのは一般的な俗称ですが、正式には「日光道中(どうちゅう)」という表記が歴史的には正確です。この違いを理解することで、江戸時代の交通網と現代の道路整備がどのように異なっているか、より深く理解できるでしょう。

 

日光街道 日光道中 五街道における位置づけ

日光道中は江戸幕府によって整備された五街道の一つとして、非常に重要な役割を担っていました。五街道とは東海道、中山道、奥州街道、甲州街道、そして日光街道から構成される主要な幹線道路です。この中でも日光道中は、日本橋から宇都宮までの17宿が奥州街道と重複しているという特殊な構造を持っています。

 

全長36里(約144km)の日光道中には、計21の宿場が整備されました。これは五街道の中でも比較的短い距離であり、また道中に大きな峠がないという特徴があります。関東平野を横切る広大で平坦なルートとなっているため、街道歩きの初心者にも適した街道として知られています。

 

江戸防衛の戦略的観点から、日光街道唯一の難所である利根川には橋が架けられず、渡しでの通行に限定されていました。その他の川には全て橋が架けられており、大名の参勤交代や商人の往来を円滑にするための配慮がなされていたのです。この点においても、日本橋から日光への交通の利便性がいかに重視されていたかが伺えます。

 

日光街道 現代の東京都通称道路との差異

東京都が定めた通称道路名としての「日光街道」は、江戸時代の日光道中とは全く異なる道路です。台東区の明治通り大関横丁交差点を起点とし、埼玉県境まで延長9kmの区間に限定されています。4~6車線の現代的な都市幹線道路であり、その大部分が国道4号として機能しています。

 

この現代の日光街道は隅田川を千住大橋で渡り、北千住駅の近くを通るルートになっており、都市計画道路としては全線が放射第12号線とされています。江戸時代の日光道中が江戸日本橋から日光まで約144kmの距離であったのに対し、現代の日光街道は東京都内の一区間に過ぎないという点に、時代による変化が如実に表れています。

 

混同を避けるため、歴史的な街道は「旧日光街道」と呼ばれることがあります。この呼び分けにより、江戸時代に栄えた街道と現代の都市交通路が明確に区別されるようになっています。自動車利用が主体となった現代において、かつての街道の面影は東京都内ではわずかに留められている程度です。

 

日光街道 日光道中の21宿場と交通の流れ

江戸日本橋から日光鉢石宿まで、日光街道には21の宿場が整備されていました。東京都内からスタートし、埼玉県、茨城県、栃木県を経由するこのルートは、参勤交代による大名の通行、日光参詣の庶民、そして商人の往来で常に賑わっていました。

 

宿場の構成としては、以下のような特徴がありました。江戸側の千住宿から埼玉県内の草加宿、越ヶ谷宿、粕壁宿、杉戸宿、幸手宿、栗橋宿、そして古河宿を経由して、栃木県内の野木宿、間々田宿、小山宿といった宿場が連なっていきます。その後、小金井宿、石橋宿、雀宮宿を経て、宇都宮宿に到達します。

 

特に注目すべきは、日本橋から宇都宮までの17宿が奥州街道と重複しているという点です。このため、参勤交代に向かう大名の行列が頻繁に通行し、宿場の運営や交通管理は幕府の厳密な管理下に置かれていました。宇都宮宿は奥州街道との分岐点であり、当時最も栄えた宿場の一つとしてその重要性を示しています。

 

日光街道 日光杉並木の世界的価値と現代での保護

日光街道の中でも特に注目すべき存在が、徳次郎宿付近からの杉並木です。この杉並木は「日光杉並木街道」と呼ばれ、日光街道だけでなく例幣使街道、会津西街道の3つの街道に渡る並木道として全長37kmにも達します。並木道の両側には約12,350本もの杉の木がそびえ立っており、高さ約30mまで成長した杉のトンネルは、街道歩きの旅人に深い印象を与えています。

 

この杉並木は徳川家の忠臣・松平正綱が20年余りの年月をかけ、20万本以上の杉を植樹することで実現しました。家康の33回忌にあたる当時、日光東照宮の参道並木として寄進されたのです。平成4年には「世界一長い並木道」としてギネスブックに認定され、また日本で唯一、特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けています。

 

道中には杉に桜が寄生した「桜杉」、大人4人ほどが入れる杉の根元の空洞「並木ホテル」、戊辰戦争時の砲弾が当たった「砲弾打ち込み杉」など、歴史的・自然的な見どころが多数存在します。これらの杉並木は、江戸時代の街道建設の技術と美意識を現代に伝える貴重な遺産となっており、世界文化遺産としての価値も高く評価されています。

 

日光観光公式サイト - 日光東照宮や街道に関する詳しい情報が掲載されています
ノミチ - 日光街道の詳細な構成、見どころ、杉並木の歴史について詳しく解説しています
街道now - 日光道中の21宿場と各宿場の特徴、交通アクセスについての実用的な情報が揃っています

 


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