放射第7号線は、千代田区九段北から埼玉県所沢市まで総延長約19.3kmに及ぶ重要な都市計画道路です。この道路は都心と関越道を結ぶアクセス道路として機能し、「目白通り」「新目白通り」の通称で親しまれています。
現在、大泉学園町の北園交差点までは開通済みですが、その先の練馬区西大泉地区約2kmの区間で工事が完全にストップしています。この未開通区間では、2006年の工事認可以降、約200軒の建物が立ち退きを完了しているにも関わらず、墓地問題により道路建設が進まない状況が続いています。
工事開始から18年が経過した現在でも、完成予定は2028年3月とされており、既に数回の延期を重ねています。当初2013年に完成予定だった道路は、墓地移転問題の長期化により、地域住民の期待を裏切り続けています。
道路建設を阻んでいるのは、500年以上の歴史を持つ日蓮宗善行院の墓地です。この寺院には約200基の墓があり、そのうち道路予定地にかかるのは約130基から150基とされています。
東京都は道路用地にかかる部分のみの移設補償を提示していますが、寺院側は「全ての墓と本堂を合わせて一つの寺」として、残りの約70基も含めた全面移転を希望しています。この条件の違いが、18年間にわたる交渉の膠着状態を生み出しています。
住職は移転自体には同意しているものの、墓地が分断される状況を避けたいと考えています。また、東京都が提示した代替地は敷地が狭く、全ての墓が入り切らないという物理的な問題も存在します。
さらに、墓の移転には以下のような複雑な手続きが必要です。
放射第7号線の開通遅延は、地域住民に深刻な影響を与えています。未開通区間と並行する「したみち通り」では、迂回する車両により長時間の渋滞が発生し、幅の狭い道路で車両が歩道に入り込む危険な状況も生じています。
近隣住民からは「越してきて12年、ずっとこのまま」「税金を使っているのに、これはどうなったのか」といった不満の声が上がっています。また、17年前に立ち退いた住民からは「何のために立ち退いたのか」という切実な声も聞かれます。
興味深いことに、開通予定の道路周辺にはスーパーやドラッグストアが新たに開店していますが、放射第7号線が開通していないため、車でのアクセスが困難な状況となっています。これは地域の商業活動にも影響を与えており、経済的な損失も無視できません。
膠着状態が続く中、東京都は段階的な解決策を模索しています。2025年2月16日には、未開通区間2kmのうち西側の1kmが先行開通しました。この区間は西東京市境に面しており、「西東京北町6丁目交差点」で南北道路「伏見通り」に直結しています。
先行開通により、三鷹市、調布市、稲城市、多摩市方面への4車線でのアクセスが可能となり、地域の交通利便性は一定程度改善されました。また、2025年4月11日には、福泉寺通りとの交差点で安全対策工事が完了し、一時停止規制の変更やポストコーンによる交差点縮小化、カラー舗装による視認性向上などの措置が講じられました。
現在残る未開通区間は、墓地周辺の約1kmのみとなっており、東京都は地元住民からの要請を受けて部分的な開通を検討していますが、全面開通の目処は依然として立っていません。
この問題の根深さは、その歴史的背景にあります。放射第7号線の道路計画は1962年(昭和37年)に決定されましたが、実際の工事着手は2006年と44年もの時間が経過しています。
特に注目すべきは、計画決定時の状況です。住職によると、昭和21年に計画決定された際、当時の住職(先代)はシベリアで抑留されており、復員は4年後でした。寺にいたのは夫人と子供だけで、住職不在で移転に合意するとは考えにくいという主張があります。
この歴史的経緯は、現在の交渉の複雑さを物語っています。寺院側は「道路計画の前に墓地は当地にあった」として、行政の都合で計画された道路建設に対する不満を表明しています。
今後の展望として、東京都は個別の交渉について詳細な回答を控えているものの、まとまった用地が確保できたところから順次工事を行う方針を示しています。しかし、墓地問題の解決には、単なる補償金の問題を超えた、宗教的・文化的配慮が必要であることは明らかです。
放射第7号線の完全開通は、都市計画における用地取得の困難さと、歴史ある施設との調整の複雑さを象徴する事例として、今後の都市開発のあり方に重要な示唆を与えています。地域住民の利便性向上と、宗教施設の尊重という両立困難な課題の解決には、より柔軟で創造的なアプローチが求められているのが現状です。