「エンジンをかける」の「かける」は、漢字で「掛ける」と書きます。この漢字表記は、自動車や機械の始動を表す際に多く用いられますが、一般的なイメージとしての「服を掛ける」という動作とは異なる意味合いを持っています。辞書的には「道具や機械などに働きかけて、動作させる」という説明がされており、これは電話や蓄音機といった他の機械にも共通した用法です。
実際に、「電話を掛ける」という表現も全く同じ時期に日本で定着した言葉であり、当時の人々が機械全般に対して「掛ける」という言葉を組み合わせていたことを示しています。つまり、「掛ける」という動詞は、対象物を「引っ掛ける」という物理的な動作ではなく、「機械を動かすきっかけを与える」という抽象的な動作を表す表現だったのです。
また、学術的には「始動する」という漢語表現も同時代に存在していましたが、やや書き言葉的で堅苦しいイメージがあったため、より柔らかな印象の「掛ける」が民間では好まれるようになったと考えられています。この言語選択は、当時の社会における文語的表現の衰退と口語表現の普及を反映した、興味深い日本語の変化です。
「エンジンをかける」という表現の真の語源を理解するには、自動車がまだ電動スターターを搭載していなかった時代へさかのぼる必要があります。今から100年以上前、エンジンを始動するにはエンジン前部の軸に直接クランク棒という長い棒を差し込み、手動でエンジンを回転させていました。この際、クランク棒の先端は半割れ構造になっており、エンジンが回り始めると自動的に外れるという仕組みになっていたのです。
この歴史的背景が、「エンジンを掛ける」という表現の本当の語源と考えられています。クランク棒をエンジン軸に「ひっかける」という物理的な動作が、やがて「エンジンを始動させる」という意味の「掛ける」という動詞へと転用されていったのです。つまり、字義通りの「引っ掛ける」から、機械操作全般を表す意味へと言葉が拡張していった過程を示しており、日本語の表現力の豊かさを物語っています。
興味深いことに、電話機や蓄音機も同じ時代にクランク機構を用いており、電話は横にクランクハンドルが付いていて「電話を掛ける」と表現され、蓄音機も針を「ひっかけて」音楽を再生していました。これらの共通性が、当時の日本人に「機械を動かす=掛ける」という認識を植え付け、表現として定着させたのだと考えられます。
日本にエンジンが登場したのは1800年代後半、日本海軍による軍艦建造の時代からと言われています。しかし当初、書き言葉では「エンジンを始動する」といった漢語的な表現が好まれていました。これが1900年代に入ると、民間の小型船舶にもエンジンが搭載されるようになり、一般市民がエンジンに直接触れるようになったことで、言語の流れが大きく変わりました。
一般市民の間では、「始動する」という書き言葉よりも、より親しみやすく柔らかいイメージの「掛ける」という和語が好まれるようになったのです。その結果、1930年代に日本が自動車の普及期を迎えるころには、すでに「エンジンを掛ける」という表現が全国的に定着していました。興味深いことに、「エンジンを回す」や「エンジンをつける」といった類似表現は、当時の文献にはほとんど見られません。これは「掛ける」という表現がいかに統一的かつ効率的に、民間レベルで定着していたかを示しています。
この言語の普及過程は、技術用語が民間へ浸透する際に、より単純で使いやすい表現へと自然に淘汰されていく現象の典型例です。専門的で堅苦しい「始動」よりも、機械操作の本質を直感的に表現する「掛ける」が、口頭での日常会話における表現としての優位性を確立していったのだと言えるでしょう。
現代日本語において、「エンジンを掛ける」という表現は自動車やバイク、また比喩的には人間のやる気や調子を表す慣用句としても広く使われています。慣用句としての「エンジンが掛かる」は「物事を始める意欲がわき、調子よく進むこと」や「悪かった調子がよくなってくること」を意味し、「受験勉強にエンジンが掛かった」といった用例が典型的です。
ただし、この慣用句的用法は人間の心理や意欲に対してのみ用いられるべき表現であり、人以外の物や事柄に対して使う場合は文法的に不自然になります。例えば「アイドルの人気にエンジンが掛かった」というような使い方は、言語としての正確性を欠いており、通常であれば「人気が高まった」といった別の表現が適切です。
一方、物理的なエンジンの始動を表す場合は「エンジンを掛ける」「エンジンが掛かる」という表現が現在でも標準的です。自動車のマニュアル車ではクラッチを踏み込んでからキーを回すなど、始動手順があり、スマートキーの普及によっても表現としての「掛ける」は変わらずに使用されています。このように、1世紀以上前の歴史的背景から生まれた表現が、現代でも揺るがない生命力を持ち続けているのです。
「かける」という表現には複数の漢字表記が存在します。主な表記としては「掛ける」「懸ける」「架ける」の三つがあり、それぞれ異なる文脈で用いられます。言語学的には「掛ける」が最も一般的で、日本国語大辞典でも「掛」を含むことわざや慣用句が最も多く記録されています。
「懸ける」は「懸念する」などの文脈で用いられることもありますが、エンジン始動の文脈ではほぼ使用されません。一方「架ける」は「橋を架ける」など、物理的に何かを上に設置する行為を表しており、これもエンジン関連では用いられません。つまり、エンジン関連の「掛ける」は「掛」の字が唯一の正しい表記であり、この統一性もまた、この表現が百年以上の歴史を通じて言語的に安定していることを示しています。
歴史的には、標準化されたテレビや新聞といったメディアの普及により、「掛ける」という統一的な漢字表記も全国で統一されていきました。現代では、自動車メーカーの取扱説明書やテレビの気象キャスターの表現でも、全て「エンジンを掛ける」という同一の表記が使用されており、言語の統一性が社会全体で維持されていることがわかります。この安定性の背景には、1世紀以上前の民間への浸透過程で自然選別されたという歴史的背景が存在しているのです。
クルマのニュース「なぜエンジンを掛けると言う?」記事:エンジン始動表現の歴史的発展過程や1910年代から1930年代の普及経緯について詳しく解説されています
ルーツでなるほど慣用句辞典「エンジンが掛かる」の項目:語源や実例、現代での慣用句としての用法と意味について記載されています
国立国語研究所「基本動詞ハンドブック」:掛ける・懸ける・架ける各表記の使い分けや活用、エンジン関連での正しい用法について記載