VSC中にピットインすると、新品タイヤなのに最終的に5〜7秒分損をして順位を落とすことがあります。
バーチャルセーフティカー(VSC)は、2015年シーズンからF1に正式に導入された安全管理システムです。その誕生のきっかけとなったのは、2014年の鈴鹿F1日本GPで起きた、マルシャのジュール・ビアンキ選手の重大事故でした。ダンロップコーナーでホイールローダーが作業中に、ビアンキ選手がそれに衝突してしまったのです。
それ以前は、危険箇所の手前でイエローフラッグを振って「減速してください」と伝えるだけでしたが、実際には十分に減速しないドライバーも少なくありませんでした。VSCはこの問題を根本から解決するために設計されています。
VSCが発動すると、コース各所のFIA灯火パネルに「VSC」と表示され、レースコントロールから各チームへ「VSC DEPLOYED」のメッセージが配信されます。全車は強制的にスローダウンを求められ、そのペースはGPSによって厳密に管理されています。具体的には、15メートルの移動ごとに算出された速度データをFIAが監視しており、定められた区間タイムより速く走るとペナルティが科せられます。
速すぎても違反になります。
一方、「必要以上に遅くてもダメ」というルールも存在します。200メートルごとに設定されたマーシャリングセクター区間で、少なくとも1回は最低タイムを上回って走行しなければなりません。ゆっくり走れば安全というわけではなく、決められた速度レンジの中で正確に走ることが求められるのです。
ピットインに関する規則は明確です。
VSC発動中、レース中においてはタイヤ交換以外の目的でのピットインは禁止されています。つまり給油(現在は廃止)や修理のためだけにピットに入ることはルール違反となります。ただし、タイヤ交換を目的としたピットインは認められているため、これが後述するVSC中のピット戦略の根拠になります。
参考情報:VSCの詳しいルールや発動条件について、以下のサイトで正式な競技規則に基づいて解説されています。
2024年 F1の『バーチャル・セーフティカー (VSC)』の運用ルール|わかりやすいモータースポーツ競技規則
「VSCが出たからといって、なぜピットインすると得をするの?」と感じるF1ファンは少なくありません。これは非常に合理的な疑問です。結論から言うと、VSC中のピットインが「得」になる理由は、自分がピット作業をしている間も、コース上の他の全車がスロー走行を強いられているからです。
通常のレース中にピットインすると、自分がピット作業に約20〜25秒かけている間、コース上の他のドライバーはレーシングスピードで走り続けます。だから順位を落とすわけです。ところがVSC中なら話が変わります。
ピット作業の間、他車はスローダウン中です。
VSC発動中のコース走行速度は、通常のレーシングスピードの60〜70%程度まで落ちると言われています。そのため、ピット作業に費やす時間と、コース上で失うタイムの差が大幅に縮まります。うまく計算が合えば、ピットインして出てきても、前を走っていた車より前に出られたり、少なくとも大幅な順位ダウンを防げたりするのです。
2018年のF1開幕戦オーストラリアGPでは、この恩恵が劇的な形で現れました。3位を走行していた車がVSC中にピットインしてタイヤ交換し、コースに戻ると首位に浮上するという「珍事」が起きたのです。これはVSC中ピットインの効果を最もわかりやすく示した事例として、今でも語り継がれています。
| 状況 | ピット作業中の他車の動き | 順位への影響 |
|---|---|---|
| 通常のレース中 | レーシングスピードで走行 | 大幅な順位ダウンになりやすい |
| VSC中 | 強制スローダウン | 順位ダウン幅が大きく縮小 |
| SC(本物のセーフティカー)中 | 全車が超スロー走行で隊列 | タイム差がほぼゼロになる |
なお、VSC中はコース上での追い抜きは禁止されていますが、「ピットイン中の車を追い抜くこと」「ピットインした車がコース上の車を抜いてコース復帰すること」は許可されています。これもVSC中ピットインで順位が変動する重要な仕組みの一つです。
参考情報:VSC中のピット戦略と順位変動の仕組みについて、元F1エンジニアが詳しく解説しています。
F1なるほど基礎知識【ピットストップウィンドウとは?】後編|f1engineer-jp
「VSCが出たらとにかくピットインすれば得をする」と思っているF1ファンは多いはずです。しかし実際には、VSCのタイミングによってはピットインが大きな「損」につながることがあります。これがVSC戦略の最も理解されにくいポイントです。
損をするケースは単純です。
当初の予定より大幅に早いタイミングでVSCが出てピットインした場合、その後のタイヤ戦略全体に「シワ寄せ」が来るのです。たとえば20周目にピットインする予定だったのに、10周目にVSCが出てピットインしたとします。新しいタイヤをより長い距離走ることになるため、タイヤのデグラデーション(性能劣化)の影響が後半に大きく出てきます。
元F1エンジニアの試算によると、当初の予定から5周早くピットインした場合、後半のタイヤデグラデーションの影響で最終的に「約7秒分」のロスが生まれることが示されています。F1では1秒の遅れがおよそ1〜2ポジションの差に相当することもあるため、7秒の損失は2〜3位ポジションダウンに相当します。これは痛いですね。
2025年のF1第6戦マイアミGPでは、マクラーレンがVSC導入のタイミングでピットインを決断した一方、レッドブルのフェルスタッペンはその直前にすでにタイヤ交換を済ませていました。結果として「実質的に損をした形」となり、順位差がさらに広がってしまいました。「VSCが味方してくれなかった」という表現がまさにこの状況を指します。
つまり損得は「タイミング」が全てです。
得をするVSCピットインには条件があります。
2025年のF1第22戦ラスベガスGPでも、角田裕毅選手が「VSCが入るタイミングが味方してくれれば、今日は非常に効果的な戦略が取れたはずですが、結局は味方してくれませんでした」とコメントしていました。プロドライバーでさえVSCのタイミングに左右されることがわかります。
VSC中のピットイン戦略を理解する上で欠かせない概念が「ピットストップウィンドウ」です。これは「何周目から何周目の間なら、VSCが出てもピットインしても得をするか(あるいは損が少ないか)」という周回数の範囲のことを指します。
なぜウィンドウという概念が必要なのでしょうか?
タイヤはレース中に徐々に消耗し、その性能は周回を追うごとに落ちていきます(これをデグラデーションと言います)。タイヤを交換したばかりの周回は速く走れますが、古いタイヤになるほどラップタイムは落ちていきます。この変化を計算した上で、「今ピットインして残りのレースを走ったとき、最終的に一番早くゴールできるか」を評価するのがウィンドウの考え方です。
たとえば、100周レースで2回ピットインする場合、最適な戦略が「20周目と40周目のピットイン」だったとします。この場合、12周目や13周目にVSCが出てもまだウィンドウは「開いていない」ため、ピットインするのは時期尚早です。一方で、18〜20周目にVSCが来たなら、まさにウィンドウが「開いた」状態なので、ピットインするのが得策となります。
ウィンドウが開いたかどうかが分岐点です。
実際のF1チームでは、エンジニアが常にコース上の状況をシミュレーションし、VSCや本物のSCが出たときに各ドライバーがピットインすべきかどうかを瞬時に判断しています。その判断はコンマ数秒を争うもので、チームが「ピットイン!」と指示を出してからドライバーがピットレーンに入るまでに大きなタイムロスが生じた場合、VSCの恩恵を最大限に活かせないこともあります。
| 周回数の状況 | ウィンドウの状態 | VSC中ピットインの判断 |
|---|---|---|
| 予定より5周以上早い | まだ開いていない | ステイアウト推奨(後半のタイヤが持たない) |
| 予定の2〜3周前後 | ウィンドウ内 | 積極的にピットインすべき |
| 予定より5周以上遅い | 過ぎている | 無理にピットしても順位を上げにくい |
ピットストップウィンドウの考え方を持っておくと、F1観戦中に「あのチームは今ピットインした方がいいの?それともステイアウトすべき?」という問いに自分なりの答えを持てるようになります。これは使えそうです。チーム無線の内容やテレビ中継のタイヤ情報を組み合わせながら見ると、戦略読み解きの楽しさが格段に上がります。
VSCを活用したピット戦略でもう一つ知っておきたいのが、「VSC ENDING」のメッセージが出たあとの動きです。VSCはいきなり終わるのではなく、まず各チームに「VSC ENDING」というメッセージが配信され、それから10〜15秒後にコース各所のFIA灯火パネルがグリーンに切り替わって正式に解除されます。
このタイミングが、実はピット戦略の勝負ポイントになります。
「VSC ENDING」が出た瞬間にコース上にいるドライバーは、まもなくフルスピードでの走行が可能になります。一方、その直前にピットインして作業を終えてコースに戻るドライバーは、タイヤを温めながら(ウォームアップしながら)再加速します。このコース復帰のタイミングが絶妙であれば、先行していた車よりも前に出ることができます。
タイミングが全てです。
逆に、「VSC ENDING」の直後にピットレーンを通過するような遅いタイミングでのピットインは得策ではありません。VSC中の「スロー走行で他車を引き留めてくれる」というメリットをほとんど活用できないまま、ピット作業のロスだけが発生してしまうからです。
F1チームのエンジニアたちは、VSC発動から終了までのおよその時間を経験則から把握しています。コース脇のマシン撤去だけなら比較的短時間(2〜3分程度)、重機が入るような大規模撤去なら5分以上かかることもあります。その見立てを元に、「今すぐピットインすれば、作業を終えてコースに戻る頃にVSCがちょうど終わる」というベストなシナリオを計算しているのです。
VSCの長さの読みも戦略です。
F1をより深く楽しむためには、VSC発動中にリアルタイムで「各車のタイヤ周回数」「ピットストップウィンドウが開いているか」「VSCがどれくらい続きそうか」を頭の中で整理する習慣をつけると良いでしょう。F1公式アプリ(F1 App)では各ドライバーのタイヤ状況やラップタイムをリアルタイムで確認でき、こうした戦略分析のサポートツールとして活用できます。
参考情報:F1の公式アプリやタイヤ戦略の詳細は、以下のサイトで解説されています。
バーチャルセーフティーカー(VSC)とは?|初心者でも分かるF1用語集|Formula1-Data
ここまではルールや理論的な損得を解説してきましたが、実際のF1レースでは「理論上は得のはずなのに、チームの判断ミスでかえって損をしてしまった」ケースが複数存在します。これはF1ファンの間でもあまり語られない視点です。
最も典型的な判断ミスのパターンは「焦りによる早すぎるVSCピットイン」です。VSCが出ると、テレビ中継でも「チャンス!」という雰囲気になりますが、ウィンドウが開いていないタイミングでのピットインは戦略的な自滅に他なりません。
もう一つのパターンは「ライバルに引きずられるピットイン」です。競合チームがVSC中にピットインしたのを見て、それに対抗して慌ててピットインするケースです。ライバルのウィンドウが開いていても、自分のウィンドウが開いていなければ意味がありません。F1チームのエンジニアが口を酸っぱくして言うのは「自分たちのレースに集中しろ」という言葉ですが、それが難しい局面のひとつがまさにVSC中のピット判断です。
焦りが最大の敵ですね。
さらに見落とされがちなのが「VSC中のピットインで、コース上のライバルを追い抜けなくなるリスク」です。たとえばコース上に遅いマシンがいて、本来なら数周以内にオーバーテイクできる状況でも、VSC中にピットインしてコースに戻ると、タイヤが冷えた状態でDRS(ドラッグ・リダクション・システム)もすぐには使えず、思うようにオーバーテイクできないことがあります。
なお、DRS(オーバーテイクを補助する後部ウイングの可動システム)については、VSCが解除された後であればすぐに使用可能というルールになっています。これはセーフティカー(SC)と異なるポイントで、SCの場合はライン通過後に初めてDRS使用可が解除されます。この違いは観戦時の見どころとして覚えておくと役立ちます。
F1観戦をより楽しむための視点として、VSCが出たとき「あのチームはピットインするか?ウィンドウは開いているか?」を予想してみましょう。レース後の戦略解説や公式データと照らし合わせると、自分の読みの精度が上がっていきます。F1の醍醐味の一つは、ドライビングだけでなくこうした頭脳戦にあるからです。
参考情報:F1のピット戦略の仕組みと、セーフティカー中のタイヤ損得計算について、以下のサイトが詳しく解説しています。
F1なるほど基礎知識【ピットストップウィンドウとは?】後編|f1engineer-jp